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原節子さん、さようなら

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 原節子さんがお亡くなりになりました。
 2015年8月中旬、神奈川県内の病院に入院して、9月5日、肺炎で死去されたとのこと。95歳、葬儀は近親者で営んだようです。

 以下は、2000年に私がネットに書いた記事です。

 6月17日生まれ、原 節子(はら せつこ)
      本名・會田昌江(あいだ まさえ)
 1920年6月17日、神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台生まれ。
 会社員の父・藤之助と母・ナミの二男五女の末っ子。
 1927年、保土ヶ谷尋常小学校入学。
 1933年、横浜市立高等女学校入学。
 1934年8月、次姉(光代)の夫・熊谷久虎監督の薦めもあり、女優になるため学校を中退、東京市世田谷区上北沢にある姉夫婦の家に同居する。
 1935年4月、日活多摩川撮影所に正式入社する。
 同年8月15日封切りの『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲)で映画デビューする。
 『緑の地平線・前後篇』(1935:阿部豊)、『白衣の佳人』(1936:阿部豊)、『河内山宗俊』(1936:山中貞雄)などに出演する。
 1936年6月、日独合作『新しき土』(監督:アーノルト・ファンク、伊丹万作)に出演。
 1937年1月、日活退社。
 同年3月10日、『新しき土』のドイツ封切りの舞台挨拶のため、東京駅を出発、満州、シベリアを経て、3月26日にベルリン着。
 パリ、ニューヨーク、ロスアンジェスを経て、7月28日、横浜港に帰国する。
 帰国早々、J・Oへ入社。
 1937年9月、J・OはP・C・Lと、新発足の東宝映画株式会社に吸収合併され、自動的に原節子も東宝映画の所属となる。
 最初の作品は『東海美女伝』(東宝京都1937:石田民三)。すぐに、
東宝東京撮影所に移籍して、『母の曲・前後篇』(東宝東京1937:山
本薩夫)に出演する。
 その後は、大女優の階段を着実に上がっていくことになる。
 1946年11月、第二次東宝争議の最中、組合の政治闘争化に反対して立ち上がった大河内伝次郎に同調して、十人の旗の会(大河内、長谷川一夫、黒川弥太郎、藤田進、高峰秀子、山田五十鈴、入江たか子、山根寿子、花井蘭子、原節子)を結成して組合を脱退する。
 1947年3月、新東宝設立に参加、『かけ出し時代』(1947:佐伯清)に出演する。
 1947年6月、フリーとなる。
 1962年11月3日封切りの『忠臣蔵/花の巻・雪の巻』(稲垣浩)に大石内蔵助の妻・りく役で出演する。その後、映画出演はなく自然と引退のかたちとなる。
 3番目の姉・喜代子は銀行員と結婚して、その長男が東宝の映画監督になった木下亮である。
 フィルムセンターでは、女優特集として、田中絹代、飯田蝶子、山田五十鈴を取り上げているが、次は、絶対に原節子であろうと予想している今日この頃。

 『二人の世界』
    (東宝東京1940.09.01公開、監督:島津保次郎)
 島津保次郎が松竹大船から東宝へ移籍しての3作目。『光と影』、『嫁ぐ日まで』と連続出演した原節子もコンビ3作目。
 誠実一点張りの技術部長・丸山定夫の娘に扮した原節子、その恋愛相手は、父親の部下・藤田進である。藤田進はこの作品で主演に大抜擢されたので、原・藤田のコンビ作品はこれが最初だと思う。

 では、また。

  ぴくちゃあ通信なんばあ1512 2000.11.29(水)

という15年前の私の記事です。


 原節子さんと最後まで交流があったのは司葉子さんのようです。
 朝日新聞11月26日の朝刊によると、
「報告したいことがある時とか、贈り物をしたりいただいたりした時に、お電話をしていました」
と明かす。最後に電話したのは今年の初夏で、
「普通のお話をして、お元気だった」
という。
「女優としてスケールの大きい、横に並ぶ人がいないような方だったと思います」
としのんだ。



 ご冥福をお祈りいたします。

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